この言葉遣いに、すごーく「違和感」をおぼえます。
他人の子どもに同じような行為をする時は、「〜してあげるね」でいいと思うし、
直接自分の子どもに話しかける時も「〜してあげるね」だと思うのです。
・・・いやいや、この場合(自分の子どものことを他人に話す時)は
「〜してやりたい」でしょう。
と、心の中で叫んでしまうボク。
「〜してあげる」というのが「なんか恩着せがましい」という意味では決してなく(こういう意見の人もいらっしゃいます)、
話す人が、誰に向かって話しているのかという、人と人との関係性が曖昧になっていることへの「違和感」です。
「了解」も、ついつい使っちゃいますが、
これは目上の者が目下の者に使うべき、あるいは同輩同士で使うべき言葉で、
上司から用事を頼まれた時に「了解で〜す」はおかしい。
そういう場合「承知しました」「かしこまりました」の方がしっくりくる。
自分と相手との関係性を今一度考えてみる。
「私が定義している『武術』と『武道』の違いを少し説明しておこう・・・・
『武術』とは、肉体運動を通して戦うための手や足、それに武器などを操ることを言い、主に運動や方法をさす。そして、戦いそのものでいうと『相手を倒す・斬る』になる。
『武道』とは、そういった肉体運動を通して、その肉体運動を支持している自分の知性や感性の鈍さを知り、指示していること自分と、それを受け取っている自分とのギャップを埋めていく作業をさす。同じように戦いで言えば、『倒したくない・斬りたくない』だから、そこに高度な技術修得の必然性があるのだ。」(『武学入門ー武術は身体を脳化する』日野晃)
「手ごたえがあっちゃダメなんです。相手に斬らせなきゃダメです」
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